SNSボタン

FB連携SDK

2019年11月5日火曜日

TCH(tooth contacting habit)は画期的な学説なのか

こんにちは! 歯医者の中田智之です。



歯医者同士で話をしていると、たびたびTCHという単語が出てきます。

この単語は歯科大学では習わず、教科書にも載っていないので、知らないと恥ずかしい単語ではありません



一方で地上波テレビで取り扱われたり、民間主催の勉強会があるなど、ある程度「名の知れた」概念であることが分かります。

今回TCHがどのようなものであるか歯学博士・臨床研修指導医という見地から調べてみたので、報告・共有したいと思います。





1、TCHの定義を確認する


TCHはtooth contacting habitの頭文字をとったもので、日本語では「歯牙接触癖」と呼称されています。

10冊以下の関連書籍がありますが、その中で共通して以下の論文が引用されており、これがコアな論拠と考えてよいものと思います。

Teeth contacting habit as a contributing factor to chronic pain in patients with temporomandibular disorders.
Sato F1, Kino K, Sugisaki M, Haketa T, Amemori Y, Ishikawa T, Shibuya T, Amagasa T, Shibuya T, Tanabe H, Yoda T, Sakamoto I, Omura K, Miyaoka H.
J Med Dent Sci. 2006 Jun;53(2):103-9.




その中でTCHは「口を閉じたとき、上下の歯が弱い力で接触し続ける状態が日々続く口腔習癖」と定義されています。

この口腔習癖があることで、顎関節症における慢性的な痛みに関係があるのではと仮説を立てています。

(*リラックス状態であれば閉口時、上下の歯は接触しないというのは歯科医師の中では常識です)



この論文では219名の顎関節症患者を対象とした横断研究が行われ、ロジスティック回帰分析が行われています。

いくらかの傾向が発見されたものの、有意差(significant)は見られなかったようです。



またPubMedでのキーワード検索を行いましたが(toothとteethで行った)、関係する英語論文は3件しかヒットしませんでした。それ以外の同じ研究グループの複数の文献でtooth contacting habitという表現は散見されましたが、TCHを中心とした研究ではなく、統計調査の1項目に含まれている扱いでした。特にタイトルにtooth contacting habitを冠する論文は2006年の1件、アブストラクトに単語を含む論文は2件で2012年を最後とし、それ以降の論文発表はありませんでした。(2019年10月30日実施)

成書の参考文献に関しては日本語論文が多く、一般的には日本語論文はエビデンスたる学術論文とは言い難いと考えています。

(*ある程度明確なエビデンスというならば数件のコホート調査、あるいは有意差を伴う大規模な後ろ向き研究が必要と考えています)



つまりこの学説は仮説段階を脱しておらず、日本国内に限定されるもので、世界の研究機関による後追い調査、もしくは概念の共有はなされていないと考えるのが妥当かと思います。



書籍においては著者が自ら仮説段階であること・エビデンスレベルが低いことを認める一方、「TCHはあたらしい学説だから学会ガイドラインにのっていない」と記述があります。

しかしこれはかなり楽観的な表現と感じます。正しくは「TCHは論文が足りず後追いもされてないから今後も学会ガイドラインに載る可能性は低い」としたほうが良いのではないでしょうか。





2、説明しやすいが鑑別診断を忘れてはならない


では書籍におけるTCHはどのように説明されているでしょうか。

これは書籍の著者によって温度差があります。



アカデミックな「源流」に近いところでは、きちんと鑑別診断として副鼻腔炎や神経痛、緊張性頭痛などを挙げて、ある特定の条件の揃った患者に対して向き合っていることがわかります。



しかしアカデミックを離れていくとWSD(楔状欠損)や骨隆起、歯の摩耗、口腔粘膜の圧痕など、必ずしもTCHの診断に結びつかない、他の原因でも起こりうるものを「証拠」として挙げるようになります。



これら様々な仮説的事象を包括して、TCHという一つの筋道で説明するのは医師・患者双方によって分かりやすく魅力的ではありますし、見落としがちなこれら「証拠」をつなぎ合わせ、原因を分析する習慣づけは良いことと思います。

しかしその結論がTCHだけではないことは、しっかり伝えていかなければならないことと感じました。





3、口腔周辺の痛みをTCHと考える危険性


では治療効果についてはどうでしょうか。

アカデミックから離れた書籍やテレビ放映では、TCHを改善することで顎関節由来の慢性疼痛が治り、知覚過敏症も改善し、歯の破折が予防され、頭痛・肩こりも改善する可能性があるとされているようです。



TCHに対する治療法は意識づけを中心とした行動変容療法あるいは筋マッサージがとられるようです。

しかしTCHに対して一定の治療法を設定し、その効果について介入研究をしたという論文はありません
(*日本語論文は十分なエビデンスとは言えないので含みません)



またアカデミックな源流においては補綴学的介入について否定しているのに対し、別の成書では補綴的・矯正的介入を含んだ、ナソロジカルな対応を症例として挙げていました。

私の感覚ではこれは相反するものと見えました。



従来より口腔周辺の痛みについては、顎関節症・副鼻腔炎・三叉神経痛・不定愁訴など多様な原因があり、それぞれ鑑別診断が必要です。

また、こちらは根拠薄弱ではありますが線維筋痛症という概念も提唱されています。



口腔周辺の痛みに関して日常的にそれらと向き合っていれば、TCHというのはある限られた領域、具体的には顎関節症1型・2型のさらに一部に関して取り扱っているものと認識することができると思います。



臨床研修指導医として私が危惧するのは、駆け出し歯科医師がまだ痛みに関して「虫歯か歯周病か」しか頭の中にないうちにこれらの慢性疼痛に出会ったとき、適切な指導を受けないまま原因不明の痛みに関して全てをTCHに原因を求めないかということです。



当然のことながら単なる虫歯による咬合痛でも、それをかばう異常習癖を経て頭痛・肩こりを併発する人はいますし、顎関節症であれば側頭筋の疼痛(頭痛)が現れても全く不思議ではありません。頭痛と倦怠感の主訴から歯性上顎洞炎を診断したこともあります。



これら全ての可能性について、冷静に粘り強く診断をし、それでもわからなければ最も適切とおもう二次医療機関に紹介するのが正しい対応です。

若手歯科医師にはTCHを教える前に、もっと広い視野での診断を教える必要があるのではないでしょうか。





まとめ


以上の通り批判的吟味をしてきましたが、歯科医師および一般市民に対し、当該分野についてフォーカスをあてた功績は大きいと思います。



また介入治療としては行動変容療法か筋マッサージであるため侵襲を与えるものではなく、太古の昔に流行したナソロジーとは違って為害作用(体への不可逆的なダメージ)がありません。

万が一診断が違っていても、悪影響がないというのは良い点です。



一方で行動変容療法は客観的評価が難しいです。

つまり結果的に治らなかった場合、「あなたの努力がたりなかったからだ」と逃げることができるということです。プラークコントロールレコードと違って達成度と治療の成功との関係について論文化された指標も明示されていません。

よってTCHに対する行動変容療法が奏功しなかったら、それに固執せず直ちに別のアプローチを検討する必要があるでしょう。



もちろんこのアプローチでなおった多くの患者さんがいること、またTCHの提唱者の先生方が顎関節症治療の達人であることは疑いようないことと思います。



しかしある治療法をゴールドスタンダードとするには誰がやっても一定以上の効果が得られる再現性が担保される必要があり、そうであれば統計学的に立証できるものと考えております。職人芸的達人技に対して尊敬をしますが、科学的普遍性と区別して考える必要があるのではないでしょうか。



一方で、補綴学分野・顎関節症分野は条件を揃えることが困難で、エビデンスレベルの高い研究を実施しづらいという背景も考慮する必要はあります。

顎関節症の中でも慢性で重篤なものは未だに治療法が確立されていないのですが、それでも目の前の患者さんのために何かしなければならないという現実もあります。

しかしある治療法を「科学的に立証されているから高い確率で治るはずだ」と実施するのと、「実証されていない方法でどこまで治るかわからないけど、それしかないからやってみる」という歯科医師側の心構えの違いは、患者との合意形成において違いが表れてくるのではないでしょうか。



以上から現時点ではTCHについて、一部の患者に対してバチっとはまって解決する場合は確かに存在し、私自身もいくつかのケースで思い当たる節がありますが、日常の診療体系構築としては参考にするとしても優先的に考慮するものではない、というのが私個人の結論です。

以上の論考はTCHを否定するつもりはなく、(提唱者の意向と関係なく)メディアによって拡大解釈されがちな状況を鑑み、自分自身の診療体系構築のためにレビューしたものでありますので、ご理解いただきたく思います。