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2020年6月23日火曜日

多様な価値観からみた日本教育の強みと今後

先日、年齢も学歴も居住国も違う、日本の教育に関して問題意識をもつ5人でZOOMミーティングしました。

参加者の属性は下記の通りです(ツイッター公開情報から抜粋)

・日本の小学校教諭
・日本の高校生
・オーストラリアの高校生
・ベトナムの高卒・スポーツコーチ
・日本の歯科大なる職業訓練校卒

これはあらたしい党オンラインサロンのディスカッション仲間と、未成年を主体とする政治系オウンドメディア おとな研究所メンバーという枠組みです。大変貴重な機会だったので、私なりに感じた部分を記事にしたいと思います。



他の参加者もそれぞれの立場から振り返り記事を出しているので、ご参照いただけると幸いです。

学力とは何か ~学力は数値化できるのか~ ー mazipon

日本のこれからの教育 ― おとな研究所

【教育はこれからどう変わる】在住国も年齢層も違う5人が大激論! ー Aki



1、他国の教育と比較し、日本式教育の特徴を発見する


まず最も私が聞きたかったのは、小学校の先生自身が教育への問題意識を持ちながらも、欧米的な自由化に準じた議論をすると、「それには違和感」と回答がある点でした。

いくら他国と比べても、現場感覚に基づかなければ実際の問題点は分かりません。今回のメンバーなら、海外における現場感覚と、国内の現場感覚両方を突合させることができ、有意義な議論ができるのではないかと企画しました。

その中で見えてきたことを、私なりに要約すると下表のようになりました。



私が得心したところは、日本教育は戦後の詰め込み教育の反省が根強くあるのだなというところでした。昭和中期(1970年頃までとされる)、高度経済成長の職業人材ニーズに基づいて生産性を向上する詰め込み教育が重視されたのですが、結果としてついていけない学生たちを中心に、校内暴力や非行少年が社会問題化したという出来事です。

一方でオーストラリアとベトナムでは現在でも学習と人材育成は結びついているという意識は共通しているようでした。これを聞いた小学校教師が、「ある意味、戦後まもなくの教育論を聞いているようだ」と受け止めたというのは大変興味深い部分でした。



2、日本はボトムアップ教育が優れている


確かに日本の学校教育は「おちこぼれ」を出さないことに注力しているのは実感があります。成績に問題ないものが比較的放任される中、落第ギリギリの生徒にきめ細やかな対応がされるというのは、実感のあることと思います。

こういった先生方の努力の結果、日本人の低学歴労働者は識字率・計算能力といった部分で諸外国と比較し高い能力があることは既に分かっており(「日本の分断」 ー吉川徹(光文社新書))、この点は外国勢からも評価されるべき部分だと指摘されました。

それと比べオーストラリアでは学校教育で「おちこぼれ」ることについて過度な危機意識はないということでした。ここは主観的な意見とは思いますが、再チャレンジに関して前述の表でまとめたような様々な施策がオーストラリアにはあるというのは事実で、「人生最初の16年が失敗だったな、とおもっても取り戻すことができる」ということでした。

一方ベトナムでは後進国ということもあり、国が優秀なものを選別することに最大の努力が傾けられているようでした。「おちこぼれ」に対しては政府はドライである一方、日本の外国人技能実習が再チャレンジの手段になっている、というのには驚きました。ベトナム人は、日本で苦労し、理不尽な扱いを受けても3年間我慢すれば、貯金もできるし日系企業に就職する道も開ける、と考えているということでした。

こうなると日本は社会が成熟し、固定化してきた分、かえって再チャレンジの方法が限られた社会になっているように感じました。もちろん文科省などで既に改善が試みられていますが、ゴールである就職先は限定的で、再チャレンジしたものを受け入れる企業側・社会側の課題も大きいものであるように感じました。



3、在学中と卒業後の評価の乖離


このように再チャレンジの方法が限られる社会では、「おちこぼれ」ないようにボトムアップに注力するというのは合理的かもしれません。

しかし「在学中のボトムアップ」に対して違和感を強く感じたのは、学校内での校内暴力や非行・不登校に関して解決できたとしても、ひとたび卒業すると「入試や就職では実力主義」であるということです。

つまりエンドポイントから遡る視点で見ると、学生たちが卒業したあとの世界は順位付けの競争社会なので、結局は求められる方向性について評価基軸を吟味して明確な基準をもって指し示すほうが、子供たちのためになるのではないか、と言えるのではないでしょうか。

入試に関してはマークシートによる絶対評価だけでなく、パフォーマンス評価の意味合いが強いAO入試や指定校推薦も導入されていますが、これもまた公平性の観点から複雑化させている一因のように感じます。



まとめ:多様な軸、教育自由化の有効性は変わらないと感じた


学校が求められる能力の方向性を示す、という意味では、ベトナムは合理的です。優秀な子供を推薦した教師は、高い評価を得られるなど、選抜と特化教育という部分でしっかりインセンティブをかけられる仕組みになっています。

一方で多様化と変化が加速する社会の中では、トップダウンの評価基軸が時代に追いつかなくなる可能性もあります。日本の教育でもそれは危惧されていることで、だからこそ順位付けによる方向性の指定ではなく、パフォーマンス評価を深めてきたのかと思います。

そうであれば、オーストラリア式に学校ごとに独自性のあるコンセプトと評価基軸(シラバス)を持ち、ニーズに応じて何が支持されるか判断するというのは有効だと思います。このような教育自由化はフリードマンが論じたものとして有名ですが、好きなコンセプトの教育に自由に参加できるだけではなく、どの教育方針がより求められているか投票する意味合いを持つとされています。

誤解されたくないのは、教育自由化では選択肢の一つとして日本の現行の教育をそのまま残すことができるという部分です。国際的にも評価の高いボトムアップ教育は、他国にはない日本独自の強みであり、教育自由化した他国がこれから解決しなければならない課題を日本は既に解決しているともとらえることができるのかもしれません。

このような教育自由化に類するものとして既に大阪市塾代助成事業や、幼児教育・保育の無償化として部分的な試みがされています。これを公教育全体に広げていくことで、学校と塾の二重構造や、勉強時間の過剰負担、コンセプト不一致による不登校や落第に関しても、解消していくことができるのではないでしょうか。

今回多様な背景を持つメンバーとミーティングできたことで、日本人の観点だけでは見えない部分も見えたし、現役の先生がどこに問題意識をもっているかも、幾分理解が深まったように思います。突発的なイベントでしたが、快く参加してくださった皆様に感謝を申し上げて、本稿を締めたいと思います。